寿永2年5月、倶利伽羅峠の戦いで源の義仲に敗れた平氏は兵力の大半を失った・・・
同年7月に安徳天皇と三種の神器を奉じて都を落ち、九州大宰府まで逃れた。
京を制圧した義仲だったが、統治に失敗し後白河法皇とも対立するようになった。
そして寿永3年1月20日、源頼朝が派遣した源範頼・源義経の鎌倉政権軍に攻められて滅んだ。
これが宇治川の戦いである。
この源氏同士の抗争の間に平氏は勢力を立て直し、同年1月に大和田泊に上陸
かつて平清盛が都とした福原まで進出していた。
平氏は瀬戸内を制圧、中国・四国・九州を支配し、数万騎の兵力を擁するまでに回復していた。
そして平氏は同年2月には京奪回の軍を起こす予定をしていた。
――前哨戦――
寿永3年2月4日、範頼が大手軍5万6千余騎を、義経が搦手軍1万騎を率いて摂津へくだった。
平氏は福原の陣営の外周(生田・一の谷・夢の口)に強固な防御陣を築いて待ち構えた。
同日、丹波路を進む義経軍は三草山の資盛・有盛らの陣に夜襲を仕掛けて撃破する。
これが三草山の戦いである。
2月6日、後白河法皇から和平を勧告。
平氏一門がこれを信用して警戒を緩めてしまったことが一の谷の勝敗を決したと言われている。
迂回進撃を続ける搦手軍の義経は鵯越で軍を二分し、義経は僅か70騎を率いて山中の難路を西へ転進した。
ここで義経の郎党の武蔵坊弁慶が道案内役を探し、猟師の若者と出会う。
義経はこの若者を気に入り、郎党に加えた。
そして鵯越が成功したのだった―――――
――開戦・生田の戦い――
2月7日、先駆けんと欲して義経の部隊から抜け出した熊谷直実・直家の父子と平山季重らの5騎が平忠度の守る塩屋口の西城戸に名乗りを上げて戦が始まった。
明けの明星、平知盛・重衡ら平氏軍主力の守る生田口の陣の前には範頼率いる梶原景時・畠山重忠以下の大手軍5万騎が布陣。
両者譲らぬ白兵戦が展開され、範頼軍は死者が続出し攻めあぐねていた。
そこへ梶原景時・景季父子が逆茂木を取り除き、ふりそそぐ矢の中を突進して「梶原の二度懸け」と呼ばれる奮戦を見せた。
――平氏敗走――
混乱が波及して、平忠度の守る塩屋口の西城戸も突破される。
生田口の東城戸では副将の重衡が8000騎を率いて夢野口の救援に向った。
午前11時頃、一の谷から煙が上がるのを見た範頼は大手軍に総攻撃を命じた。
知盛は必死に防戦するが、兵が浮き足立って、遂に敗走を始めた。
合戦の一番乗りの功名を果たした熊谷直実は敵を探していると、馬に乗って海に入り、沖の船へ逃れようとする平氏の武士を見つけて呼びかけた。
武士はこれに応じて、陸へ引き返して直実と組むが、勇士の直実にはとても敵わず、組み伏せられた。
直実は首を取ろうとするが、武者の顔を見ると薄化粧をした美しい顔立ちの少年だった。
武者は清盛の弟経盛の子、敦盛16歳と名乗った。
直実の息子も同じ16歳で、憐れに思い逃がそうとするが、他の源氏の武者が迫っており、とうてい逃れることはできまいと泣く泣く敦盛を討ち取った。
直実は武家の無情を悟り、後に出家して高野山に上った。
この敗走で平氏一門の多くが討たれ、平氏は屋島へ逃れて、戦いは鎌倉方の勝利に終った。
いやぁ、奥が深い・・・って何書いてるねん!!!!!!
いやいや、知盛と重衡が一緒に戦っているだけで萌えるんですけど!!!!
しかも景時の息子に重衡捕まるしね
三種の神器と引き換えって言われるけど、平氏はそれを拒否・・・
重衡憐れ・・・orz
だから逃げ出して記憶なくして、泰衡に拾われて呪詛の種埋m(違っ
・・・にしても平家の血筋って美しい顔だったのかな??
敦盛も↑こう書いてることだし、惟盛も美しい顔だったって辞書に載ってたし(ぇ
怨霊になりさえしなかったらねぇ・・・(違っ
上の見てると遙かの敦盛ってそうそうに殺されてるんだよね。
九州に逃げた時にはもう怨霊に・・・orz
後、将臣は頭よかったんだと・・・
だって源氏の行動をことごとく阻止してたってことは、それなりに歴史を知らないといけんしね
単語は知っていたとしてもそれがいつ起こるとか・・・
まぁトリップする前に選択肢にでこの時代のこと習っていることになってたし(毎回源平合戦にしてた記憶が)・・・頭に入ってるか
将臣がまじめに授業を受けてるとこが想像できない子ですが笑vv
本当は敦盛の最期を敦盛視点で書こうとしたんだけど、いつの間にかこうなってしjまった・・・orz
あかん、ほんまに脳内ネオロマや!!!!!!!